「英雄」に関する私論
1、英雄とは何か?我々が生きている地球には多くの「英雄」が存在する。日本のヤマトタケルやゲルマン民族のジークフリート、ケルトのクー=フーリン、ギリシアのアキレウス、へラクレス、オリエントのギルガメシュなど数え上げればきりがない。しかしその膨大な数にもかかわらず彼らにはある特定の共通点がある。時代背景や社会的要請などで幾つかの例外が見られるものの大半の英雄達にはそれがあてはまり、それがすなわち英雄と言うものの本質を表しているとうことができるだろう。ただこれらを考察する前に私がここで「英雄」と言っているのは今日的な英雄を含む物ではなく、いわゆる「神話的英雄」であり、神話的あるいは神話=文学的、民族=文学的背景を有する「英雄」のことである。そのため(例えばロバート・ケネディやナポレオンのような)歴史上の英雄的人物は念頭におかれていない。無論このような人物の中にも以下の考察にあてはまったり、神話的レベルまでその地位を押し上げられた人物もいるが、基本的には対象外である事をお断りしておく。 2、「文化的英雄」と「トリックスター」ここで上げられている「英雄」には社会に対して有益な技術をもたらしたり、発明したりする(ギリシャ神話において火をもたらすプロメテウスのような)「文化的英雄」や、偶然によって新たなる変化をもたし、社会を活性化する「トリックスター」は現在の所含まれていない。しかしながらルーンクエスト的な英雄像を探る上で彼らの存在は必要不可欠である。さもなくば非戦闘的なカルトのキャラクターに対して十分な答えをもたらす事ができないだろう。そのためこれらを見過ごす事ができないのだが、「英雄」の共通点を見ていく上では彼等は本質的に「英雄」と異なっており、話を混乱させるだけである。そのため彼らに関しては一時論外におかせていただいて、あとで改めて論じると言う形をとらせてもらおうと思う。 3、「英雄」の共通点「英雄」とは超人的な能力を有し、もっぱら武力によって物理的な力による攻撃を退ける事によって社会の危機を救う(救った)存在である。世界にはキラ星の如く「英雄」が存在するが、彼らの生涯には多くの共通点が存在する。以下にそれを挙げ解説をつける。 (A)神と人間の間の子である。彼らの超人的な能力は多くの場合その体内に流れる神の血に由来する。彼らはその能力において神の側の存在であり、その限界性において人間の側の存在なのである。彼らはすなわち超越的なものの(人間への)媒介者のである。これを歴史的にみれば、超越的なものは同時に、「森や海などの自然的な存在=人間が支配できない物」へと置き換える事ができるだろう。「英雄」はこの点において「人の手におえない物」と「人の手におえる物」の境界に立つ存在であり、同時に彼らは「人の手におえない物」の力を具現しているのである。この事は「英雄」の中に見られる矛盾した行動(戦闘の興奮のあまり味方すら手にかけるetc.)の本質的な原因であると考える事ができる。自然の恐ろしい力を具現する超越的存在と闘うためには、「英雄」みずからがそれらと同等の荒れ狂う存在とならねばならず、その内面は常に狂暴な暗い側面を含有している。 (B)辺境で成長する。彼らはその出自にもかかわらず、多くの場合辺境で育つ。この事は上記の人間と自然の境界に立つものという性格を象徴しているのと同時に「英雄」の優れた資質をあらわし、そして彼らを鍛える試練として存在する。多くの「英雄」は若くして「英雄」として存在するため、彼らがいかに優れているか、いかにしてその能力を高めたかをここで語っている。 (C)華々しい武勲。これに関してはもはや語るまでもないであろう。ただし注意して欲しいのは幾つかの例外はあるにせよ、ほぼ必ず武力による功績であると言う点である。これは「英雄」の出現する時代背景を考える上で重要なポイントである。すなわち英雄を生む時代背景とは、共同体内で(英雄ではない)戦士個人の活躍、武勇、名誉が確固たる意義を持っている時代でなくてはならないという事である。戦時において戦士が集団で行動する様な時代になると「英雄」は当然その活躍の場を失う。 (D)悲劇的結末。「英雄」達が幸福な余生をまっとうする事はほとんどないといってよい。彼らには死の瞬間まで試練がつきまとい、遂には力およばず倒れるのである。彼らが常人をはるかに超えた神のごとき能力を有していても、いや、有しているからこそ彼らには印象的な死が用意されているのである。人間としての能力的な限界をはるかに越えていながら、結局は「死」という人間の限界を打ち破れない事こそが、彼らを人々の間の「英雄」たらしめているのであり、人々は人間の悲劇を知り、「英雄」の挑戦を親近感を持って賛美するのである。そして死によって「英雄」ははじめて永遠の存在となり、伝説となるのである。 4、時間的変遷「英雄」がその輝きを失う時代に関しては上で少し述べたが、それでは「英雄」が現われるのは何時なのであろうか?これに正確な時間で答える事はできないが、「社会」という共通認識が生まれなければ、社会のために闘う「英雄」という者は存在し得ないであろう。よってある程度のまとまりのある共同体が社会として自覚したころに生まれたと考えられる(それ以前は「世界」という認識の上になりたつ神話の時代である)。そして彼らは戦闘の集団化とともにその力を失っていくが、ここにきて新しい英雄像が生み出される。それはアーサー王やフィン・マックールの様な騎士文学に現われる「英雄」達である。彼らはそれまでの「英雄」達とは違い完全な人間であり、超常的な力も持っていない。しかし彼らこそがよりリアルな「英雄」であると感じられる事もまた事実である。 5、「英雄」のルーンクエスト的展開以上、地球上における英雄について書いて来たが、これをルーンクエストにあわせて展開してみようと思う。そのためには魔術的世界グローランサとわれわれの地球の相違点について考えなくてはならない。 我々の考察に最も大きな影響を与える相違点は、グローランサにおいては超越的存在としてはっきりと神が存在する事である。そしてこの世界の神は我々の世界の神の様に観念的な存在ではなく、実質的、経験的に存在しているのである。ここにおいて我々の世界において「英雄」達の挑戦の対象としてまことに不確実な存在でしかなかった「怪物」は確固たる形を与えられているのである。もうひとつは超自然的存在に対抗するために、超自然的な力を手に入れる、もしくは超自然的な存在になるための方法が「ルーン」という方法において認知されている事である。これにより「英雄」は出自という不確かな力の源泉から解き放たれ、みずからの努力において英雄たる事が可能になるのである。この2点を踏まえた上で上記の「英雄」の共通点を1つづつ見て行きたいと思う。 (A)神と人間の間の子である。ルーンクエストに限らず、PCにこのような出自を与えているTRPGはほとんどない。GMによってはこういう設定をなさっている方もおられるが、上で述べている様にグローランサではみずからの努力によって「英雄」となることが可能な世界である。このため英雄的な出自という物のは必ずしも必要な物ではないだろう。特殊な出自を持つグローランサの英雄には“罪深き”グンダ(ヴァルキューレと人間の子)や“剃刀”ジャ・イール(計画的交配による誕生)等がいるが、神を親に持つ英雄は少ない(赤の皇帝 etc.)。 この事からもグローランサで英雄として存在するために出自は決して重要な要素ではないと言う事が言えるだろう。 (B)辺境で成長する。実際にゲームをする中ではこれが最も重要な要素となるであろう。ここでは成長と言う言葉が使われており、一見すると成人するまでの様にも思えるが、実質的にはいかに「英雄」になるか、と言う事を表している。無論叙事詩的な英雄物語をプレイする場合には、この部分をすっ飛ばしいきなり「英雄」レベルのPCを作ってキャンペーンを始める(地球の「英雄」のような「英雄」物語をプレイする)ことは可能であるが、そういったバックボーンの薄いキャラクターではおそらく面白味も半減してしまう。それにルーンクエストをする場合、いきなり神話的レベルを想定する事はまず有り得ない。ルーンクエストの場合、おそらくルーンレベル一歩手前ぐらいが最もゲームシステムがバランスよく働くと考えられるため、おそらくこのあたりから始められる事が多いだろう。そしてGMに恵まれた幸運なPCが「英雄」としての道を歩み続ける事ができるわけだがここで最大の問題が生じる。それはこのレベルに達するとシステムがうまく機能しなくなる点と、世界観が「英雄」の存在を受容しているにもかかわらず、システム的なフォローが何等なされていない点である。 「成長」に関してはいろいろと述べたが、辺境と言う点に関しても少し補足しておく。ここで使われている「辺境」とは文明と自然の境界線を現していると述べたが、グローランサにおいては人々は「人間の手におえない自然」の後ろに神が存在する事を「知って」おり、それゆえに地球の「英雄」物語で意図される所の「辺境」は存在しない。しかしグローランサにはそれに変わる「辺境」が用意されている。それは「英雄界」である。グローランサの英雄達はここで自分達の英雄的資質を磨くのである。これは「物質界」を果てまで行くと「英雄界」へとつながる事からも理解できるであろう。こうした「成長」がもっともよく記されているのは王子スノーダルである。彼の北の果てへの逃避行とそこでの修行はまさしく地球の「英雄」のそれである。 (C)華々しい武勲。地球の「英雄」達が挑戦する超自然的存在が神々へと置き換えられるため、グローランサでは「英雄」達の目的は神を超越する事となる。「神を殺して成り代わる」「神の教えを書き換える」など多くの形態が考えられるが、それはすなわち神の超越に他ならない。もちろんそのためには地球の「英雄」達が荒れ狂う自然に打ち勝つために、みずからをそのレベルまで引き上げた様にグローランサの「英雄」達は神々に打ち勝つために神々と同等の力を身に着けなくてはならなくなる。このために用意されているのが「ルーン」であり、神々の介添え無しでも神話的存在になり得るのである。また、この事実はグローランサの住人の間でも認知されており、現実の存在としての「英雄」を存在させる事が可能になるのである。彼らはボードゲーム「ドラゴン・パス」に見られる様に人間を遥かにしのぐ存在であり、もはや普通の人間では有り得ないのである。地球の「英雄」達が死ななければ「英雄」たり得ないのに対し、グローランサの「英雄」は生きながらにして「英雄」なのである。 (D)悲劇的結末。より究極的なカタルシスをもとめるなら、グローランサの「英雄」達にも悲劇的結末を与える事が可能である。しかしTRPGにおいてはそれを行なう必要性は必ずしも無いのである。それはキャンペーンの終了が究極的にはPC=「英雄」の死を現しており、キャンペーンというリアリティを共有した者の間で「英雄」へと昇華するからである。一応PCも生きた伝説としてグローランサに存在し続ける事は可能である。しかし自己としてよりも他人の視点に立った方が「英雄」の英雄性を強く認識できると言う事実は認識しておくべきであろう。 6、「文化的英雄」と「トリックスター」についてさて、棚上げしていた「文化的英雄」と「トリックスター」について述べなければならないが、現実世界と比べるとグローランサの「文化的英雄」や「トリックスター」と「英雄」の境界線は遥かに不明確な物である。なぜなら「英雄」が挑戦すべき超自然的存在が神々に置き換えられてしまったために、物理的手段によらなくてもそれを超越する事が可能になったからである。このためグローランサにおいては「文化的英雄」や「トリックスター」が「英雄」たり得るのである。そしてこの事は「英雄」がその成長過程で出会う「試練」にも彼ら向きの物があるともいえるだろう。 7、結論としてグローランサには「英雄」を生み出すための背景がそろっている(システム的にフォローされていないのが実に残念である)。そしてグローランサにおいては神こそが究極の「英雄」なのである。神はその神話の中で「英雄であるにはどうすればよいか」を体現しているのである。グローランサの神々は「英雄」達と同じように葛藤し、挑戦してきた。そして神たり得ているのである。グローランサの「英雄」達は(あなたのPCも含めて)その道の果てにある神をめざす。地球の「英雄」達と違い、彼らにとって(そしてあなたのPCにとっても)グローランサの神々は手の届く距離にいるのである。
追補1)信仰グローランサのPC、そして「英雄」の多くは信仰を持っている。私がルーンクエストのGMをしていて、神を「盲信」する事が信仰であると考えているプレイヤーがいる事に気がついた。この事は必ずしも間違いであるとは言えないが、私個人としては「信仰とは信じると同時に懐疑する事」であると考えている。「盲信」する事は簡単である。ひたすら神を信じる力が「英雄」への原動力たり得るのであるが、「神を疑う」事もまた「英雄」への原動力たり得ると考えている。グローランサにはみずからの信仰への挑戦によって神性を獲得した神もいる。もっとも重要な事はGMがこのどちらをも受容すべきであると言う点である。 追補2)共同体本来はこの事は本文中に挿入したかったが、構成上追補にまわらざるを得なかった。それは「英雄」はその存在を認めてくれる共同体なくしては「英雄」たり得ない、ということである。 地球上の「英雄」を「英雄」たらしめているのは、彼らを支える共同体が存在している事である。同様にグローランサにおいてPCを「英雄」と認めてくれるのは他でもないグローランサの住人である。そういった共同体はもちろん始めは小さな村から始まるかもしれないし、みずからの属するカルトかも知れないが、そういった共同体の人々がPC達を「英雄」と認める事によってはじめて彼らはその共同体の「英雄」になることができるのである。 ここで重要な事はPCが共同体の「英雄」としてその要請に応えながら、共同体と一体化していく事にある。成功や失敗をわかちあうこと、集団の統率などはそういった「一体感」を味わうための最良の方法と言えるだろう。もちろんPCには多くの責任がかかる。あらゆる行動が許されるわけではなく、当然「共同体の英雄」の名に恥じない行動が要求される。彼らは常にその英雄性を試されているのである。たしかにそれは窮屈な状態かもしれない。しかしそういった窮屈さ、義務、責任、制約こそが単なる「力を有する個人」と「英雄」を分けるポイントとなるのである。 またPCは彼らが共同体の英雄である事を証明するために、アーサー王のように象徴的なアイテムを手に入れる必要があるかもしれない。地球の英雄達の様に(時には神を介した)血縁によってその共同体との関係が証明されるのと異なり、グローランサの英雄達は(もちろん例外もあるが)こうした証明を必要とするケースが多いだろう。それがまた、冒険のテーマになることもあるだろう。どちらにせよ、そういったみずからを「英雄」たらしめてくれる共同体を持たない「英雄」はもはや「英雄」とは言えないである。 これはむしろプレイヤーよりもGMへの提案である。PC達の「英雄」としての存在を支えてくれる共同体を生み出してあげてください。たとえそれが架空の世界の住人であっても、彼らこそがPCを「英雄」たらしめるのだから。 |
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